訴訟社会に備えて − 第9回 コントラクトマネジメント(契約)
グローバルスタンダードの膾炙(かいしゃ)と共に、私たちも契約社会、訴訟社会へ加わったと錯覚しがちです。その背景は、法曹界、特に外国人弁護士の資格制限の解放を意図しています。特にアメリカでは多くの弁護士事務所がサービス産業として成立するほど、事件や訴訟が法律事務所によって行われています。その可否はともかくとしても、私たちが権利意識に目覚めているなどと、いまだに未開の国のように言うのは不思議ですね。
いずれにせよ、21世紀になってから企業不祥事や国家の事件も多く伴い、コンプライアンス意識が高まってきていることは確実でしょう。法に詳しくなることだけがコンプライアンスというわけではありませんが、社会や組織間の責任や義務について多くの期待が待ち受けていることだけは確かです。
コントラクトマネジメント、すなわち企業契約の問題を考える際には、どうしても法律専門家としての法律事務所や弁護士に相談を委ねることが増えてきました。契約に伴うリスクマネジメントは、専門家に任せておこうという風潮があるのも確かです。しかし、本来の契約におけるリスクマネジメントの目的は、ただひたすらに「法的責任を最小化して、賠償や罰金の金額を減らすこと」にありました。するとつまり、企業にとっては正当性を主張するか、全く無視することができるような体制を作り上げることにありました。
しかし、社会のコンプライアンス期待はこのような法律の妥当性を求めているものではなく、企業の説明責任や透明性、平等性や誠実性を期待しています。ですから、「謝らないで済むように万全の策を取る」というよりは、きちんと状況を開示して説明を行い、判断を社会に委ねるという姿勢が何より重要になってきます。
ちょうどフクシマ原発問題で東京電力が毎日記者会見を行い、ブースカ、デニーロ、カリメロ、エース(登場する人のあだ名)という人びとが事故を解説し、長時間の記者会見を続けてきましたが、世論は彼らの発言や態度に東京電力という大企業を重ねて見ていました。どれほど大量の好感度アップのための広告費を投入してきても、企業の印象が僅か数名の人びとによって代表的な印象を持ち、不十分な説明では隠そうとしているふたをこじ開けられ、後から登場した会長やら社長やらの答弁に疑惑の目が向けられていました。
企業という法人が実は担当する個人そのものであるように見られている、つまり企業の格が担当者の人格によって見られている、という事実が訴訟社会への警告となっていました。
どれほど契約に不備が無くとも、責任や義務を回避できたとしても、担当者レベルでの説明の方法、透明性への誠実な態度が不十分であれば、相手は疑い、時間を掛けてでもスキを探そうと交渉が長引くことになります。明らかな事実を認めなくなり、調停で済むような案件がこじれて訴訟に行き着く事になるでしょう。
謝ることを避ける体制が、責任を避けようとする姿勢であるなら、紛糾するばかりです。謝り方、つまり当事者や責任者の説明責任、事実の因果関係に関わる透明性の保証を誠実に示してゆくことを通じて、起きた事件や事故についての恭順や同情の態度でいることが何より重要であることが求められているように思います。
(イーソーコ総合研究所・主席コンサルタント 花房 陵)