人づくりは社会づくり その8「喫煙権考」 - 144 
筆者はタバコを嗜まないが、喫煙者のいる職場では、部署あるいは個人の判断により、しばしば「タバコ休憩」が設けられる。依存性の身体にニコチンを補給するべく、タバコ1本を吸う3~5分間が労働の合間に挟まれ、程よい気分転換となっていることもある。しかし「塵も積もれば山となる」とことわざに言われるように、1回3~5分の息抜きであっても、それが1日5回、10回と重なれば大きな時間となり、更に1ヶ月、1年にわたれば、労働時間≒給料の何%かが喫煙のために支払われている計算になる。
こうした労働力のロスを解消するべく、鎌倉市では平成27(2015)年10月から、市庁舎内を全面禁煙とした。タバコが吸えなければ喫煙のために休憩をとる必要はなく、その時間を労働に充てることができるため、職場の稼働率が上がる。……と聞けば、誠に結構な話であるが、そう理想通りには行かないのが人間の厄介さというものである。
確かに、タバコは百害あって一利なく、吸わずに済むなら、それに越した事はない。しかし、喫煙者の多くはニコチン依存性であり、ニコチンの欠乏による禁断症状が業務に支障を来すレベルの重症者も少なくない。タバコを吸わせなければ、その分働くという単純な話でもないのである。
意外なことに、人間の集中力は緊張状態よりもリラックスした状態の方が持続するというデータがあり、長時間連続して働かせるよりも、適度な休憩を挟んで心身をリラックスさせた方が、結果として効率が高まることが多い。その手段としてなら、タバコ休憩の効用についても見直すべきと考える次第である。……等というと、タバコ撲滅に向かう時代の流れに逆行するようではあるが、そもそもタバコを悪者にしながらタバコ税に財源を依存する現代社会の欺瞞こそ、糾弾されるべきである。
また、非喫煙者の息抜きについても喫煙者と同様に配慮されるべきことは、言うまでもない(意外と見落とされがちなので念のため)。
このささやかなエピソードが、読者諸賢にとって他山の石となれば幸いである。
(フリーライター 角田晶生)2016.04.20